どうも、そいる塾長です。
今日は私が考える塾としての役割「学力を伸ばすこと」について考えてみたいと思います。
Twitterでもよく見かけるテーマです。つまりは成績アップと学力を伸ばすことは別問題というお話ですね。
なんのために塾をやるんだと言われれば、やはり子どもたちの「学力」を伸ばしたいから。あくまでその結果が成績アップとか志望校合格なわけで。
もちろんその結果も私は重視します。おもしろいサッカーをするけど勝てないチームの監督ではダメですね。それでは選手も観客も離れていく。あくまで結果は追求せねばなりません。
ですが、そのために「学力」を伸ばすことから逃げてしまってはいけない。自分の手を離れた瞬間、魔法が解けしまうということではいけませんよね。
高校生の指導は捨てられない
私はやっぱり高校生を指導したい。
これがあるから余計に中学生の、いやもっというと小学生の指導でこの「学力」を伸ばさないといけないと思うんです。
なんででしょう…。以前どこかで高等部は割に合わないとか言ったような気がします。それは経営面から言った言葉なんですけど、やっぱり大変。
おそらくSOIL開校1年目は高3生、いや高等部自体やっていけるか悩んでいるところです。高等部を創ると一気に手が足りなくなります。(本当にそんなに生徒が来てくれるようになればうれしんですけどね… ^_^;)
受け入れたけど対応できなくなりましたではいけないですしね。もちろん塾の形態によっては可能なんでしょうが、自分の手をかけられないのは無理があります。
それに中学でみていなかった子たちを高校で育てるのは難しい。もちろん自分の塾だけができることではないでしょうから、なかには何の問題もなくするっと馴染んでしまう子もいます。
ですがやはり中学でこのブログの最後で言う私の定義する「学力」がある程度備わっていないとしんどい。
だからやっぱり中学から仕込みたいんですよね。そして中学で第1段階を作って、高校生でそれをしっかり活用させて第2ステージへ持っていく感じ。もちろん大学に入ったあとは知らねーよってことじゃなくて次のステージで学ぶ土台をつくる。
例えば、中学で内申点が足りなくて志望校にいけなくっても目指す大学を変えてほしくない。それは「学力」があるならばの話。「学力」があることと内申点があることは別問題であることは多いわけで。
だからこそ私が関われる最後のところ、高等部をなんらかの形でつくりたいなと。
そして高等部では自分だからこそできる最後の「種まき」をしたいなと思うんですよね。
それにこれができるのが自分の強みでもありますし。現在の塾は、一時期、個別指導なのに高校生が会員数の約半分を締めていた時期もあります。
やりたいことで評価してもらえてお金を稼げることほど幸せなことはないですからね。
「種」ってなんだ?
じゃあ小学や、中学の間にまきたい「種」ってなんだ?と。
もちろんSOILのキャッチフレーズである「自信の種」なんですが、その自信はどこから来るのか。
もちろん成績アップや志望校合格という成功体験は言うまでもありません。いやもっと小さな成功体験でも十分かもしれません。例えば、今までできなかった因数分解ができるようになっただけで、または体験授業で三単現のSをどういうときにつけるかを教えただけで子どもたちの目の色が変わる瞬間を何度も見ているわけです。
だからこそ子どもたちの「できない」を塾の力で「できる」に変えてあげたい。
でもね…
これはきっかけに過ぎないんですよ。この瞬間「学力」が伸びたわけではない。ここで止まる塾にはしたくない。ここで止まると高校で自分でできるなんて妄想を抱かせるだけになる。
もっと大切なことがある。
それがちゃんとした「学力」を身に着けさせること。
学力ってなんだ?
学力の定義は難しい。人によって捉え方は全く違うと思います。そこでまず自分にとっての学力という言葉の定義を考えてみます。となると…
そのまんまですがこうなります(笑)
いやこんなの一義的に解釈するもんじゃないことくらいわかってますよ。でも一番最初に思い浮かぶのがこれなんですよね。
小中校での勉強というのは基礎学力と呼ばれます。大学以降の高等教育の下地とも言えますが、単にそれが大学で専門的に学ぶための、もっというならその後の人生で活用するための基礎知識という意味ではないと考えます。
でも、そういう意味では例えば、「漢文は将来生きていく上で必要ないから学ぶことには意味がない」という論には頷くことができないのです。
初等・中等教育においては、学ぶべき知識以上にその「学ぶ」ということそのものを学んでほしいのです。
(もちろん漢文が役にたたないとも思わないし、役に立たないこと人生から排除したらなんて無機質な人生になるでしょう、なんてことも本当は5000字くらい言いたいですが今日は我慢)
そういう意味では未知なるもの、そしてたとえ興味関心のないものに対しても能動的に学びその面白さを知ることができる能力とでもいいましょうか。もちろんそこで得意、不得意なんてのは出てきても良いのです。不得意だからやらないなんてもったいない。
考え方を変えれば不得意なものこそ、学ぶ力をつけるためには最強の教材じゃないのかとも思うわけです。それをできるようにする力ってとんでもなくすごい力になりません?将来。
それこそがなぜ勉強しないといけないの?という問いに対する答えの一つだと思っています。
あくまでこれは答えの一つであって他にもたくさんあるわけですが。
学力を伸ばすために必要なこと
では学力を伸ばすために必要なことは何でしょうか。
それは一つ明確なものがあります。
これを塾が鍛えるというのは、当たり前のようでありながら、実は本当に難しいこと。
「考える」という行為が非常に抽象的であるため、言葉でその「考える力」というものがどういうものなのかを伝えることがなかなかに難しい。そしてそれがちゃんとできているか生徒の頭の中まで覗けない。
だからこそ授業でいかにそれを仕込んでいけるかだと思うんです。しかしここにはパラドクスが潜んでおり、授業で塾に依存させてしまうと、子どもたちの自分で考える力は当然育たない。
前回も書きましたように「わかりやすく丁寧な指導」が手取り足取り子どもたちと保護者さんの満足を得るためだけのものになってしまってはいけない。授業がなければできないではいかんのです。最終的に自分で学んでいくための力を身につけるのですから。
最終的には。
だからこそ、最初はやっぱり寄り添うことが必要なのかなと。つまり授業です。わかりやすい授業がきっかけとしてはやっぱり必要かなと。これもまた自分の武器でもある。
先生の授業のおかげで英語がわかるようになったんです。
このへん読む方によってどう解釈されるか分かりません。塾依存だ!自立できとらん!本当の学力ではない!なんて批判もあるかもしれない。
でもこのきっかけがあったからこそ、この子は自立へ向かうかもしれません。そんな子をたくさん見てきたんです。
考える力を身につけるために私は寄り添う形を選択しようと思っています。もちろん依存なんてさせるつもりはありません。そんなことしたらいったい何人見れます?そんな売上では生活できません。
だからある程度時間をかけたいのですよ。高3の夏休みからっていうんじゃなく。
あくまで自立して自分で「学ぶ力」を身につけてもらった上で高等部に継続して通ってもらう。それこそが高等部の成功の鍵だと思うのです。
もちろん完全に自分でできるようになったら自分でやればいいんです。それでも私は大学入試で教えられることはあるとは思っているのですが。
まだまだ悩むSOILの形態
ということでまだまだ授業形式といいましょうか、どういう形を取るか悩んで入るのですが、色んな先生とお話をしていて、自分がやっていて楽しい形が一番やなと。それが一番得意なことであり、武器になるのかなと。
もちろん生徒ファーストなんで自分がやりたいことでも意味がないことはしませんよ。そんな事やっていても生徒は集まらないでしょうし。あくまで生徒のためになると思うことを、あまり形は気にせずどんどんやっていきたいなという意味です。逆に言えば苦手なことは生徒のためにならないので無理をしてやる必要はないなと。
そうすることで自分の色を出していけるわけですね。
それが個人塾やん!
少し外からどうみえるかを気にし過ぎていたかなと。やはり自分の色を出さないとね。自信はあるわけだし。そこで勝負すべきなんでしょうね。
こんなことを尾方塾の尾方先生と話していて痛感したんですよ。
尾方先生が今本当に楽しんで今塾を運営されているな~と感じたんです。尾方先生のやりたい形が実現できている感じがして生徒さんも幸せやろうなと。どんどん生徒増えているみたいですし。(増えたら増えたで尾方先生の体が心配ですが…)
そういう意味で集団個別式と呼ばれる方式の重要性が自分の中で上がってきております。
この辺忘れないように毎日走ります。
今日はこのへんで。
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