創心館で高校国語特別講義:前編【現代文の授業の根底にあるもの】

そいる塾長
そいる塾長

どうも、そいる塾長です。

創心館で授業をさせていただき、冬期講習特別講座として高1・高2生の現代文特別講義を担当させていただきました。今回は前編として自分のやった授業についてその根底にあるものをご紹介したいと思います。

他塾での授業は超刺激的!

本当に有難いことに創心館で授業をさせていただく機会を得ることができました。

まずはお声掛けいただいた安延先生、白数先生にこの場を借りて御礼申し上げます。

早速ブログでも取り上げていただきありがとうございます。

村東先生のイベント授業【最終日】 - 大阪市住吉区・住之江区の学習塾『創心館』のブログ:楽天ブログ
先日からお知らせしております村東先生のイベント授業ですが、 本日で最終日を迎えました。 熱い授業が繰り広げられています。 この冬、高1、高2を対象に全3回で行いました。 イベント授業前

自分が大好きな塾。そして独立しSOILを立ち上げようと思うきっかけを頂いた塾。なんならこんな塾で教えたいと不覚にも前職時代に思ってしまった塾。

最初の訪問は5月。まさか年内に5回も訪問することになろうとは…。そしてまさかあの場所で自分が授業をすることになろうとは…。

※写真は10月のです。今回授業に夢中で全く写真を撮らず(-_-;)

このように創心館はオープンスペースでの授業が特徴。この反対側にも4(だっけ?)ブースあってそこに安延先生や白数先生はもちろん、あの藤井先生を筆頭に個性の強い、そして超強力な講師陣がずらっと並んで授業をするわけです。圧巻です。

あの熱量がたまらんのですよ。

2日目は藤井先生のとなりで授業しましたが壁が一面ホワイトボードになっている創心館。藤井先生の”あの”板書の延長線上に私の板書があるわけですね^^;

記念に写真をとっておけばよかったな(-_-;)

オープンな教室なのですべての人に見られる環境での授業。

刺激的でした。

ただ授業始まると私集中するんで生徒以外の目はまったく気にならないんですがね。

本当に私を信頼していただき、とにかく私の授業を生徒に受けさせてあげたいと言っていただけました。塾講師としてこれほど光栄でうれしいお話はない。


昨日の最後の授業のあといつも通り安延先生と二人熱く語って帰ってきたのですが、そこで出た話題。

授業を見られることに関しては「いやいや~、僕なんて…」とか一応は言いますよ。(最近言わないな…私…^^;)

授業後お褒めの言葉をいただいても同じ。

でも、心のなかでは微塵もそんなことは思っていないわけです(笑)

「どんどん見て!もっと見て!」これが私たち二人の共通認識でした。自信があるし授業が好き。

我々はお金を頂いて授業をしているんです。同業者に見られて恥ずかしいような授業なんてするわけがない。唸らせてなんぼやろ!それくらいの思いでいつもやってます。

反省しないわけではない。毎回絶対に何かもやっとしたところは残る。それはこうやってどや顔してても次に生かす。

久々に授業後ず~っと授業のことを考えてましたね。

初めての場所で初めての生徒に講義をする体験。

だからもちろんプレッシャーはありましたが、それは他の先生に見られることにあるわけではないのです。その意味では逆に見てもらえる機会を得たのが何よりうれしかった。

自分の国語の授業を受けたら劇的に変わる生徒がたくさんいる。それはもう本当に劇的に。確固たる自信がある。

だからこの3日間で一人でも多くの生徒を動かしたい。そう思ってこの刺激的な授業に臨みました。

頭のなかの歯車を回す

一応軽く授業内容について。

高1クラスも高2クラスも、現代文に苦手意識がある子が多かった。本当に自由に暴れていいと言っていただいたのでとにかくまずは現代文への苦手意識を変えるというところから始めました。

しっかり読解すること。そして国語という科目のルールをしっかり認識してもらう。

これが私の現代文指導の基礎中の基礎。変な小細工はしません。

そしてとにかくこだわるのは再現性

学校の教科書でも、次の模試でも、最終的な入試でも、そして大学に入って読む教科書でも、もしかしたらこの授業がきっかけで将来新書なんかを読むようになった場合でも、あらゆるものを読むための最初の型を身につけさせる。

読解力がないのではなく読解力を使いこなせていない子の頭の中の歯車をいじくりまわして正常に動くようにするイメージ。

今”持っているもの”で出来ることを見せる。

ここから彼らは少なくともたくさんの国語の問題と対峙し、もし読書をするならばそのなかでさまざまなテクストに出会うわけです。

そのときに歯車が回っていなければ読めるわけないし、そもそも読もうという気すら起きない。

最初に教室に座った男の子は国語なんてこの世から消え去ればいいと言っていたわけで(笑)

こういう子に、読めるってどんな状態のことか ー 簡単に言えば(私のように)読めると言っている人の頭の中の歯車の動きを見せることで、彼らの頭の中の歯車が足りておらず機能していないのではなく、ただその組み合わせ方がおかしいことに気付かせたい。

そのために私の授業は自分の頭のなかの歯車の動きを設計図とともにアウトプットして見せる授業。

もちろん私のなかの歯車は彼らに比べたら立派な歯車かもしれない。生徒同士でも一人ひとりそれは違うわけで。

語彙力が違う。前提知識が違う。論理力も推測力も…。

だから生徒が今もっている歯車によってここでの伸びが違うのは当然。

しかし同時にこの差は国語力によるとも限らないと思っています。

例えば再現する能力が高い生徒。わたしの思考をアウトプットした時にそれを自分も同じように再現できる生徒が伸びやすい。

高1、高2ともに一番伸びたと感じた生徒は二人とも理系。二人とも学校でも最下位クラスの偏差値30台らしく…^^;

それでも実際の入試問題で2問目にしてほぼ満点レベルまで到達。この子たちはこれからのトレーニングで確実にセンター現代文、特に今回扱った評論文は得意になる。

なぜこんな最も国語から縁遠いような子にこんなことができるのか。

それはその子たちが理系科目が得意なだけあって再現性の能力が優れていたから。

だから私のアウトプットした設計図通りに思考をトレースしてくれた。そして次の問題でそれを再現できたということです。

嬉しかったのは2回目の授業時、前回不参加だった生徒が解答に悩むなか初回参加者の二人がこれしかないやんと言って正解をバッチリ選びその根拠を明確にしましたこと。そして「おー、なんか理系科目みたいやん」といって嬉しそうに解いてくれたこと。

理系の国語嫌いの子の苦手意識をとってやろうと意図してやったことですが狙い通りの反応が返ってくると嬉しい。

再現性は文系科目でも理系科目でも関係なく非常に重要な能力。ただこの子たちがあそこまで国語が苦手だったのは数学の数式のように国語での思考を可視化できず、さらに国語特有のルールを知らなかっただけなのかなと。

変に歯車が組まれておらず全部部品が地面に置かれてしまっている感じなので最初から解体する必要がなく再現しやすいというのもあるかもしれません。

苦手な子はその方法について「無」なので入りやすい場合が多い。素直にというか…いったん受け入れてくれやすいかなと。変な癖がついている方が指導するのは大変というのはどの科目でも同じです。

しかしいずれにせよスタートはそれでいい。遅かれ早かれしっかり今回の型を意識していれば正しい位置に歯車がはまり始める。今はまだ小さな小さな歯車で馬力は出せなくてもいい。あくまでこれがスタート。しっかり組み合わせてちゃんと最初にこちらが回してあげれば動きはじめるはず。

大事なのは歯車をひとつひとつ丁寧に正しく積んでいくことを意識すること。

一度カチッとはまって起動すればあとはとにかく読む。そして歯車の動きをメンテナンス。

そのうちに無意識レベルでできるようになる。

そしたらまた新たな歯車を組み込んで組み込んで…次第に巨大なものになっていく。こうやって複雑な思考を一度にできるようにしていく。

そしていったん動き始めた歯車は先ほど書いた色んな題材を吸収していくことで歯車が大きくなり馬力も出せるようになってくるのです。


今回の授業で何かをつかんだ人、まだモヤモヤが残っている人、人によりそのレベルは色々だと思います。ですがここからもがいていきましょう。せっかく掴んだものも油断するとすぐに手から滑り落ちてしまいます。

再現性という言葉は口酸っぱく授業で話しましたが、これが苦手なら得意にしなければ。国語だけの問題じゃないですからね。

指導のポイントを少しだけ

iPad proのデビュー戦でもありました。どのアプリを使うのか…などなど、またこの辺もどっかで書きたいところですが今回は長くなりそうなんでやめておきます^^;

とにかく3日間で指導した内容について特に導入部分でお話しした私の現代文の授業の根底にある考え方だけを上げていきます。授業内容なんて書ききれませんからね。

てことで実際の現代文指導の内容は受講者のみなさんがいつでもこの「型」に戻ってもらえるように創心館専用ページをこのブログに作成して動画と文章で学べるものつくるつもりです。(もうしばらく待ってね^^;)

なので今回はちょっと理念のような抽象度の高いところだけ書いておきます。

シンプルな思考

数学と同じ。複雑な計算を苦手な人がやるならば、まずは丁寧に一つずつ処理していくべき。

マルチタスクをせずシンプルにひとつひとつ丁寧に積んでいく。

それをまずは意識してやる。図示するもよし、書き込むもよし。自分の思考をトレースしやすいように可視化しながらひとつひとつ丁寧に処理していく。

そしてそれを型として毎回問題と向き合うたびに意識して意識して意識して…無意識レベルに刷り込む。

最初あんなにバタバタやってた因数分解もいまやみんな無意識レベルで出来てしまうわけです。

それと同じ。

例えばこの文章の主題は?という質問。

いきなり要約レベルの文章を考えるのでなく。それができないから困っているわけです。

だからまずは思考手順として用意しておいた質問を自分にしてみる。

「映画」の話をしているのは分かる。しかしその「映画」に関してどう書いてあったと聞いてしまうと誰も言えなくなってしまう。

ところが「作者は映画が好き?嫌い?」と聞いたら全員スパっと答えられるわけです。

例えばこうやって思考を2択にするだけで思考がシンプルになり0だったものが1になる。この0から1が大きいのです。そこから「なんで?」「なにが?」と質問をしていけばこの「1」が大きな違いとなって現れてくる。

これが歯車が回り始めるということ。

思考の可視化

そしてこのシンプルに分解した思考の手順(といっても厳密な手続きのように指導はしません)を可視化できるようにしてみる。

本番の入試でそうやって解けと言っているわけではないのでご注意を。

数学なら途中式がある。採点のときも見直すときもどこで間違えたか、どこまで理解しているかが分かりやすい。

だからこそ数学は勉強しやすいが国語は何をやればいいのか分からないという子がいる。

そういう子こそ自分の思考を可視化して毎回解答という結果を見るのではなく、その解答にたどり着く思考のプロセスを可視化しておく。

そうすることでこれまで現代文は何をやればよかったのか分からなかった子が初めてどうやれば勉強すればいいか見えてくる。

そしてこれに関しても意識して意識して意識して…無意識で出来るレベルまでやっていく。

そうすれば頭の中で図示できるような感覚が出来上がる。頭のなかの収納ボックスがしっかり整頓されてラベリングされ、しかもそれに収納する手際がよくなってくる。

とにかく頭のなかのものをアウトプットすると何が分かっていて何が分かっていないのかがわかる。そして解答にたどり着いたプロセスが見えるから改善ができるということです。

間違ってもらいたくないのはこれは正答率を上げるテクニックではない。最終的には可視化しないことが目的。ただ頭の歯車が正常に機能しているかをアウトプットしてデバックする感じです。

ちなみに授業では歯車とか一切言ってません。ブログと授業は別物です。生徒に向けて書いているわけではないのでね。ま、私が実際に会うとブログとイメージが違うと言われるのはこの辺が原因かもしれませんね^^;

国語のルールを理解する

おかしな言い方かもしれませんが、本文読解ができたとしても正解できない子がいるのは事実。

国語は答えが一つではない?

よく言われることですが、これは評論文がどうの、物語文がどうのではなく、国語という科目、そしてそのテストのルールが分かっていないからかなと。

語弊があることを承知の上で言うなら、出題者の意図に沿って解答を用意しなければ国語のテストでは正解できない。

しかしこれは模範解答と同じ答えを書かなければいけないという短絡的な意味ではありません。

例えば京大の国語が解答例を出す可能性がささやかれていて胸熱ですが、あのテスト…模範解答なんてあくまで一例に過ぎず同じことを書かなくても正解になる可能性は十分にあると思っています。

というのは、出題者の問いたい内容、求めたい能力を解答として表現できていれば正解になるのではないか、とすら思っているんです。あくまで私見ですが。

出題者の意図を考えるとは…。

例えばなぜその傍線部が「どういうことか」を答えなければいけないのか、ということを考えるということです。

例えばある個所をパッと読んだだけでは理解できていない可能性を出題者がそこに見出したのでしょう。

だから問うわけです。「お主はわかっておるのか?」と。

そこに比喩表現があるとしましょう。ならばやはり比喩という表現技法を理解しておりその一般化ができるかどうか。それを問いたいわけです。

具体例に線をひっぱって問うならば、その抽象化ができるかを問いたいわけです。

そうやってちゃんと読めているか、そして誰もが同じ読みができないといけないと出題者が判断した内容について正しく答えられるかを問うのが国語のテストです。

それを無視する子がいるわけですね。無視するというか選択肢を選んだり記述式の文章を考えているうちに忘れている子もいる。

質問に答えている間に話が脱線し何を聞かれていたか分からなくなること私でもあります笑

だから本文をちゃんと読まずに解ける系のテクニックには何の意味もないのです。「統計的に④が一番正解が多いよ」みたいなのと同じレベルです。求めてられている「ちゃんと読めますよ」という能力を発揮できないのであればテストに合格すべきではない。

だからこそ逆に国語が苦手な人は(他科目も同じですが)もっと出題者の意図をしっかり読み取ることが重要です。

そのための思考の手順として私は傍線部の分析といったり、このように問いに対して向き合うことを解法と呼んだりします。が、それはできる人ならパッと問題文を読んだときに読み取れるようなことを、できない人のために上の読解法のようにひとつひとつ歯車を分解し目に見える形で組み立てていくことを指しています。

間違ってもこのテクニックを使えば答えが簡単に見つかるよ、みたいなのを教えているのではないというのは重ねて言っておきますね。

なんてことを根底において現代文の授業を始めました。

ということでだいぶ長くなったので前編はここまで。

明日はこの続きを。

今日はこのへんで。

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