国語から英語へ一言【一文をしっかりと読むことの大切さ】

そいる塾長
そいる塾長

どうも、そいる塾長です。

今日は英語と国語両方のお話。一文をしっかり読めないのに長文が読めるはずはないですよね。ましてや書くなど不可能。となると話すのも無理かな。英語ならまだしも日本語くらいちゃんと読めるわ!と思っている方も本当に読めているかご確認を。国語が苦手なら特に。「一文をちゃんと読める」というスキルはあらゆる学びの場面で非常に重要です。
 

先に結論

 
書いているうちにどうしても英文法軽視の英語教育批判チックになり書き終わってみると5000字を超えてしまったのですが、言いたいのはそこじゃないので読むのが面倒な方のために先に結論を書いておきます(笑)
 
国語で一文を正確に読み取る力を身につけるのに英語の和訳がいいんじゃないか?
 
というお話です。

英語なら適当に読んでいいわけがない

田中先生のこんなツイートが話題になっております。

まずこの正答率にも驚きますがなによりびっくりしたのがこのツイートにぶら下がっているリプの中で「この選択肢の違いなんてどうでもいいよ」的なご意見。「こんな細かいことを言っているから日本の英語教育は…」的な。

英語が苦手な高校生なら分かるのですが、なかにはなんだかとっても偉い(私は全く知りませんが)方々がおっしゃっているようですね。いやそれはさすがにいかんだろうと。

英語がどうの、という問題じゃなく。

あらかじめ言っておくと私はここで英語の話がしたいのではなく国語のお話です。

私だって英文法だろうが国文法だろうが細かくて面倒に感じるような部分は多々ありますよ。生きていくうえで全く困らないだろうなと思う部分はある。

ただしそれが必要かどうかは別にして大学入試レベルごときの英文法を大体理解するくらいのことが難しいと思うなら他の科目の勉強はまず無理だろうなと思っていますが^^;

しかしこの話はそんなレベルの話じゃないだろうと。このツイートの3つの選択肢の和訳はひらがな一文字違うだけですがちょっとニュアンスが変わるなんて話じゃあない。それでは全く文意が変わる。

「文脈がないからただしく訳せない」「英語は英語で捉えるべき」というご意見も見かけましたが、話はそこじゃないっていう。この文の主語はどう読んでも主語だし、そこは英語と日本語でちゃんと対応する。訳がどうとかではなく。

これを細かいと言っている方は関係詞のことを言っているのでしょうか。whichが関係詞とさえ分かればその後ろなんて中1英文法。本当の基礎の基礎ではないかと。

関係詞が分からない、関係詞なんて英会話で使えなくても困らない細かい話だというならそれは別にいいです。一旦その辺は置いておきましょう。

でもなんでここでitが主語かどうかが細かい話だとか言われているのかが分からない。

何が主語かというのはこの文章の場合文脈や英語の性質に影響されない記号部分の話。主語でしかありえない場所に主語として書いてあるんだし。言うならば翻訳ソフトが最も正確に訳せる部分です。

リーディングスキルの話が頭をもたげる

私は別に新井氏のリーディングスキルを読解力そのものだとは思っていないですし昨今の論理重視傾向や実用文の読解を重視する傾向をあまり快く思ってはいないのですが、ここで主語かどうかなんて…という話が出てくる以上、やはり今の日本人にはそれが欠如しているのかなとも思います。

だってさすがにここで主語が分からなかったら数学の文章題(小学校レベル)が解けないだろうなと。

そういえば今ネットにこういうのが出回っていますね。

こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか
にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば
じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて
わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
ちんゃと よためら はのんう よしろく

たしかに読めます。AIにはまだ無理でも人は文脈やら経験で補うので読めるのですかね。あと空白部分。区切りがあるから読める。

でも実はこのでたらめな文章、助詞だけはちゃんと書いてあるのですよね。空白も助詞の存在に気づかせてくれる。まあ、「最初と最後の文字さえあっていれば読める」という文章ですからそうなりますね。

つまり助詞が正しいから読める。何が主語かといった語句の構造上の役割は分かるからこんなでたらめでも読めるわけです。さらに読めるように助詞の「に」や「は」は区切ってくれていますしね。

次は私が助詞を適当に変えてみた文章です。ついでに空白も消します。

こんちにはみさなんおんげきですか?わしたとげんきです。
このぶんょしうにいりぎすのケブンッリジだがいくはけゅきんうとけっか
にんんげをもじににしんきするときそのさしいょはさいごをもさじえあいてっれば
じばんゅんにめくちちゃゃでもちんゃとよめるをいうけゅきんうともづいとに
わざともじをじんばゅんといかれえとあまりす。
どでうす?ちんゃとよゃちめうでしょ?
ちんゃとよためらはのんうよしろく

変えたのは「て」「に」「を」「は」ですがやはり読みにくさが格段に増しますね。いれかえていない最初と最後の一文はこれでも読めますかね。いや…もしも読めるという方がいたらそれは上のやつで一度読んでいるからではないですかね(私は読めてしまったのでゲフンゲフン…^^;

要は変えちゃいけないのは助詞です。これこそが語句の文章の役割を示します。

あとこんなでたらめな文章が読めるのは崩されている語句が非常に平易で既知のものだからかなと。推測が及ぶのはそのため。

となると語彙のレベルを引き上げられると一気に読めなくなるというわけです。入試の国語や英語で起きることと同じです。

入試の評論文は日本語ですが哲学など抽象的な文章だと読んでも頭に入らないという子が出てくるのもこれが一因。

なお英語では助詞の役割を語順などで示すわけですが、主語がわからないのに私は文章が読めるというのは詭弁では?と思うのです。当然英語なら主語は別に何でもOKとかあるわけがない。日本語ならまだしも主語にうるさい英語ですから。

 

文脈で変わるもの変わってはいけないもの

もちろん日本語でも文脈がないからこれだけでは本当の意味でこの文が何を意味しているのかは分からない、とは思いますし、文脈により訳(文意)が変わるのはわかります。

例えばこの文での「それ」や「現象」は文脈により適正な範囲内で意味が変わります。

指示語の「それ」は言うまでもなく、「現象」にしてもそれは「自然現象」のことかもしれないし、哲学でフッサールの現象学の話をしているなら「意識に現前し、直接的に自らを現している事実」のことになるでしょう。

だからといって文の主語や修飾-被修飾の関係は変わりません。意訳する場合も、主語を変えたとしても文意は変えてはいけません。つまり構造上主語ではなくしたとしても意味の上では主語ということです。

英語で文構造ごと意訳するような場合に最も気をつけなければいけないのがその構造が本来持つ語句の関係性を崩してはいけないということ。

主語は主語としての意味を失わない。そこをずらした瞬間話は別のものになる。

「虫が花粉を運ぶ。」→「虫により花粉が運ばれる」

受け身にしたのでみかけの文構造上、主語は変わりましたがあくまで「運ぶ」という動作主は「虫」です。ここを変えたらえらいことです。

ここで「虫を花粉が運ぶ」としてしまうような文意の変更を誤読と言うわけですね。

ここで虫が花粉を運ぶのは誰もが知っている話だからこれが誤読だとすぐにわかりますが、以下の場合だとどうでしょう?

「ヘモグロビンが酸素を運ぶ」 ⇔ 「酸素がヘモグロビンを運ぶ」

これ生物では基本でしょうが生物を習っていない学生からしたらどちらが正解か分からない。これをそんな細かいこと気にしない!っていうのははっきり言って英語界にいる特定の方々のみ。

細かくないでしょうよ。

当然これは難しいお勉強に限ったお話ではないですよね。こんなことしていたら会話においても話が通じない。

これは英語でも国語でも変わりません。数学でこれやったらそりゃ文章題は解けないですよね^^;

日本語における助詞は複雑ではあるものの文の標識であり正しく読まなければいけないルール。これが英語では語順だったりするわけですが人の解釈が挟まるべきではない部分。

筆者の用いる語句(ここでは「現象」)の意味を頭フル回転で吟味するのが本来の読解だと思うのですが、そのためにルールをしっかり守って読まないと当然筆者とのズレが生まれてしまいます。だって筆者が期待するところに従わずに読んでいるのですから。

「期待」というのは最低限日本語が通じるということです。

これはさらに入試では問題出題者とのズレを生むわけで、確実に国語ができない要因です。ですがこんなことをしていたら教科書だって読めないですよね。

ここでのズレは文意を変える。

しかし日常生活をしていてこのアンケートで誤答を選ぶ人の数ほど言語活動に問題を抱えている方に出会ったことはない。つまり助詞を日常会話で正確に使いこなせない人などほとんどいない。

助詞を理解していないのではなく、意識して使っていないというのが正しいのでしょう。

だからいざこのような形で尋ねられるとおかしくなる。

さて、この問題で主語を取り違えてしまうような人が英語で日常会話ができるというならばその場合、やはり文脈で補う、つまり推測で理解しているということでしょう。

なおこれは大学受験で出題されたとしても決して難しい問題などではなく高校生なら構造分析などという難しい言葉を用いずともitが主語だと分かるレベルだと思います。

おそらくリプ欄で「こんなものは英語を話すのに必要ない」とおっしゃっている方は英語がペラペラなんでしょう。だから文法など体に染み込んでいて意識せずとも自然とここで何が主語かは分かる…

(…のだと思っていたのですが…今回のを見ているともしかして本気で主語とかの基本文法すらりかいしていないんじゃないかと不安になりました…^^;)

しかしこの文で主語だと見抜けない人は間違いなく文章の読解だけでなく、日常生活のいろんな場面で正しく読めないものが出てくるはずだと思います。英語が話せるかどうかとかって問題じゃなく、ただひたすらに一文から正しく情報を取れていないからです。

少なくともある程度高度な情報になると誤読、もしくは読めていない状態なのではないでしょうか。

正しく読めないとこうなる

今からお話しするのは別に高度な文章を読む場合の例ではありません。先日とある高3マーク模試の国語(評論文)で見事0点を勝ちとった生徒を見ていた時のお話です。

彼は国語がこれまでずっと超苦手だったそうです。たった1回模試の見直し授業をしただけですがこれだけでもう0点を取ることはないでしょう。そこはご安心ください^^;

しかし彼が国語を得意科目にするために今後問題は山積みです。

そう思わされたのがある一つの問題。問題といっても本文ではなく選択肢の一文のお話。

授業後私の指導内容をもとにまだ未解説の問題を自力で解くも一問だけどうしても最後2択から選択肢が絞りきれないと言うのです。理由は両方同じことが書いてある気がする、というもの。

その二つの選択肢を私も見ました。その時が初見ですが2秒で正解がわかるくらい明確な違いがありました。その二つの選択肢がこれ↓(模試は転載禁止のはずですし私も手元に問題がないのでうろ覚えということで文はちょいと変割っていると思います)

問題「アーティストのようになりつつある」とはどういうことか。

①…(略)…、アーティストも…(略)…能力が求められる

②…(略)…、アーティストのように…(略)…生きるようになっている

このふたつで悩んでいるわけです。いや、正確に言うと上の…(略)…の部分のみ吟味し「アーティストも」と「アーティストのように」の違いは見えていないのです。

「アーティスト」にだけ目がいって助詞を見ていないから二つの選択肢の中で「アーティスト」という語句の役割が同じに見えている。

これは流石に簡単な例なので普通は気がつくと思うかもしれませんが、この誤読パターンは指導していて本当に多い。本文の読解とかのレベルではなく一文が正しく読めないパターンです。

彼にちゃんと丁寧に選択肢を読むよう言いましたがそれでも気がつきませんでした。

私が「傍線部は『アーティストのようになりつつある』だよ」とヒントを出しても気がつかない。

気がついたのは私が「ように!」といったとき。そこで初めてそこに目がいったわけです。

彼は何度読み直してもこの2文の文構造が同じだと認識してしまいました。もちろんそこに目が行った後はどちらが正解かはすぐにわかったようです。

つまり「ように」と「も」の意味の違いはわかるしそれにより文意がどう変わるか、そしてこの問題のどちらが正しいのかは理解ができる。でも自分ではそれを読み取れない。

あの英文法の問題の話に戻りますが、別にあのアンケートで誤った選択肢を選ぼうがそれが英語の理解不足ならわかるのです。関係代名詞が分からなくても生きていけます。日本でなら。

しかし私が怖いのは日本語訳の違いに対する反応の方。つまり訳なんてどれでも同じと言っている人達。そして文脈が文法を覆すという誤解(あの問題の場合文脈で文法の意味用法が変わるという話ではない)

英語の勉強不足でできないのではなく、そもそも日本語でこんなレベルの人たちが英語の読解の話をしているのかということです。英語を使って国際人にという話をしているのかということ。

ただ普通の一文を正しく読み取ることなくできない自称読める方々は、文学や論文などの難しい英文ではなく、単に契約書だったり新聞だったりをこの感じで読むんでしょうか。

英語を英語として考えるというのは私もよく言いますが、日本語を母語とする人間が日本語に訳せと言われて正しい助詞が選べないのに読めていると言われても、何を読んでいるの?としか思えないです。これは英語(英文法)の問題ではなく日本語の問題のような気もするんですよね。

日本語で理解していない、つまり存在を認識していないものをいくら英語で説明しても無駄かなと。

助詞を意識しない日本人が英語の語順を意識するわけがない。そして英語が母語であっても語順のような英文法で語句の役割がわからない人が正しく読めるわけがない。

そんな無能を創り出して国際人とか何を言っているのか分からないのです。

推測で補う力は大切です。しかし正しく推測するためにはその元となる正確な情報が必要です。国語を学ぶのであればまずは後者から。正確に情報を取った上でその後の楽しい楽しい作者の意図が込められた語句、文の吟味がスタートします。

文章を読むということの基本は一文を正確に読むこと。

これが国語のすべてではないけれど基本であるのは間違いない。

これができないから算数の文章題や理科のリード文から条件が取れないような子が生まれる。日本語がペラペラなのに。

国語ができないから算数の文章題が解けないのか?

国語を勉強すれば算数の文章題ができるようになるかというのは疑問です。

それはおそらく今行われている国語の指導はそこに主眼を置いていないから遠回りになると思うからです。もっとストレートに一文の精読ができるようにする、いやその必要性を意識するトレーニングが必要かと。

そのためには数学は数学で、理科は理科でそれぞれの文章をそれぞれの科目で要求される思考で読解する練習が最も効果的かと思うのです。私はそこを意識して各科目を指導します。国語の授業でやるわけではないですね。


 
留学もせず英語が話せるようになりその後留学、留学先で現地の女の子と結婚し今は日本で暮らしている知人が塾へ遊びに来た時の話を思い出しました。
 
 英語を話せるかどうかは練習、ちゃんと話せるかどうかは勉強
 
だそうです。話せるようになればなるほど勉強の大切さが分かるとのこと。
 
これは結局母語である日本語の勉強、つまり国語の勉強と同じですね。

結論

ということで最初に書いた結論です。

意外に国語で一文をしっかり読むための練習に英語での和訳がいいのかも、なんて思ったのです。
長くなりましたがこれが言いたかっただけです(笑)
 
言語を客観的にとらえることは論理的に文章をとらえる練習にはもってこい。
 
だからペラペラ話せる日本語でも文法を学ぶべきなのですが、文法構造が異なる外国語との差異を見つめることで自らが無意識に取り組んでいる母語の言語活動に良い影響が生まれるのでないかなと。
 
先ほどの算数の文章題を解けるように国語を勉強するのではないという話ですが、私は逆に数学の文章題や理科や社会のリード文(もちろん教科書も)を読む練習をすることで国語に良い影響が出るのではないかと思っています。
 
国語は全ての科目の基礎であるのは間違いないのですが、それを国語の先生に任せるのではなく全科目の先生が理解し指導において意識するべきではないかと。国語は全ての科目を指導する上での基礎。つまり生徒にとってだけではなく、指導者側に要求されるべきことかなと。
 
もちろん英語の先生がこれを免れるなんてことは絶対にありませんよね。
 
今日はこの辺で。

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