どうも、そいる塾長です。
入試前の激励
入試前というと各塾色々とやりますよね。「激励」
それにもいろんな形があります。
他人の方法をやいやい言うつもりは全くありません。
ただ私の考えを書いておきます。最近こういうことにも無自覚ではいけないなと思うのですよ。
ま、答えが出る気はしませんが思うことをつらつらと。
激励はしなくてもそりゃ頑張るさ。けど、だが、しかし…
私が鉢巻まいてエイエイオーってやらないのはこれに尽きると思うのですが、みんな言わなくても頑張ると思うので「頑張れ~」ってやる必要はないかなと思っています。
ただ彼らはまだ子ども。緊張でいつも通りの力が発揮できない可能性もある。
だから何もしないことはない。
一人一人入試前の状態は違う。
生徒たちを見ていると分かるんですよね。所見でわかるんですよ。
入試前日の中3生なんてなかなか塾から帰らない子もいる。
緊張して一人になりたがらない子がいたり、方やもう卒塾が決まっていて明日から塾で勉強しないのが寂しいだけの子がいたり。
本当に受験生の精神状態なんて千差万別。だからその辺ケアするのも私たちの仕事のうちかなと思います。
ごくまれに私たちの何気ない一言で人生が変わってしまうくらいデリケートな子もいるというのは忘れてはいけないなと思うのです。
だから無自覚ではいけない。
たかが入試。されど…
たかが勉強、たかが入試。後から振り返ったら何でもない。
でもそれは大人の視点から振り返ったときに分かること。勉強は大切だ、何のために勉強するのか、というのと同じでね。だからいい歳こいたおっさんがしたり顔で子どもたちにマウントとってもなとも思うんです。
少なくとも子どもたちにとっては一大イベント。
あんな苦しいことを特段人生において大切なことじゃねーよと子どもたちが自覚してやらなきゃいけないものなのかなともおもうんですよね。
そんなこと言ってたら部活の大会で優勝とかしても意味はない。後の人生では大した価値はない。ということになる。
しかしそんなことは決してないわけで。
普通の人は甲子園の決勝に立たないわけで、なんなら一生補欠で大会の舞台にすら立ったことのない人もいる。
とすれば自分が主人公の戦いって結構この入試が初めての人は多いかもしれない。
だからこそ自分と向き合い、何かを乗り越えたと思えるような成功体験が受験では可能であって、そこに感動が付与されていたって問題はないのではないかなと思います。
ただおそらくそこに対して批判がある理由は、その「感動」の根拠がおかしなもので、かつそれが過剰に演出されたものであってはならないということなのではないでしょうか。
なんかラグビーの試合前にラガーマンが泣くやつあるじゃないですか。あれで気持ちを高めるみたいな。「ラガーマンは試合の後に泣くんじゃない、試合前に泣くんだ」みたいなやつ。
あれは効果があるみたいですね。
もしかしたらよく批判されがちな涙を流しながらの激励にも、そういう効果もあるのかもしれない。
昔あのグアルディオラ監督もバルセロナにいたころチャンピオンズリーグ決勝でこんなことやってましたね。
何人かの選手はこれに涙し、たしかに試合にも勝ったわけです。
たしかにこんなことやらなくても勝ったかもしれません。この記事の中でもペップは効果があったか疑問だみたいなことは言ってますし(笑)
でもまぁもしかしたら最後しんどくて足を止めたくなったときにこれが思い出されて数秒間足る時間が長くなったとしたらそれだけで効果はあったのかもしれません。
ま、そもそもこれが受験に通じることかは知りませんよ。
ですが数学の難問で躓いたときあの鉢巻まいてエイエイオーが思い出されてマイナスに傾いた精神状態をもう一度立て直すことができるかもしれません。もしそうならそれだけでもやる価値はあるんでしょう。
いずれにせよ、子どもたち自身が今まで自分が頑張ってきたことに対し感極まるくらいのことはあってもいいんじゃないかなと。ちゃんと自分のなかに頑張ってきたという根拠があるのなら。
入試の結果は入試本番に頑張っても変わらない。それまでの頑張りによって決まるもんだ。入試なんて通過点だろ。
わかります。しかしそういうのは普段から仕込むべきもの。入試の前日に言うことじゃない。
だからこそその辺がちゃんと仕込まれているなら、子どもたちが自分で入試という一つの通過点までのストーリーを自分の中につくるのはOKかなと。そしてどれを自分なりにドラマチックにするのはありでないかなと。
それって結構将来役立つ能力じゃないかなとも思うのですよ。しんどいことを楽しめるってそういうことなんじゃないかなとも思うのです。
ただし大人たちがあたかも入試をゴールに見立て全力でそれを演出し錯覚をみせるような無責任なのはなしだなと。
高校入試で終わっちゃう子。大学入試で終わっちゃう子。
やっぱりゴールの見立てがおかしいのですよ。でも合格発表を見て泣いている生徒がみんないつまでも過去の栄光を引きづって足を止めてしまうなんてことは決してないですからね。
問題は足を止めてしまう可能性を考えない自己満足な演出に酔う大人たちの方ではないかと。
演出されたストーリー
この激励が指導者側が「頑張ってきた感」を演出するためのものならやはり違うなと思います。
でも子どもたちがやってきたことをちゃんと評価してあげたいって意味での激励はありだと思うんです。
それは入試が終わった後でもいいのですが、入試の前じゃないといけないものも少しはあるのかなと。
それはメンタルコントロール。
仕事をしていたってやはり何気ない上司からの一言でやる気が出ていい仕事するみたいなのはあるわけですよね。
試験当日生徒の良いパフォーマンスを引き出すのは当然塾の仕事かなと。
かくいう私は前職時代、学生講師が中心となって生徒に向けて応援色紙を書いてました。講師が自主的に始めたものです。結構みんな熱いメッセージを書くのですがここでその先生の能力値が見えるのは面白い。
ダメな人は…
みたいなのを書きがち(笑)そうじゃないだろと思うんですよね。
しかし誰にとっても頑張っていない子のやつを書くのはきつい。何書きゃいいんだよと^^;
そういう子はそんなもんもらってもきっとうれしくもなんともないだろうなと。
だからそういうとき私が書いていたのは…
こうなったらやるしかない。頑張れ!
とかでしたね。そう書くしかないでしょう。まだ頑張ってないんだから頑張れとしか言いようがない(毒舌)
本当に頑張って入試に挑むような子は講師の誰もがコメントを書きたくなる。なんかちゃんと伝えてあげたいなと思うんです。ちゃんと評価してあげたい。
中にはそれを親や学校からは評価されていない子だっている。だから私たちは評価したいし、入試の結果でもちゃんと評価されてほしい。
そして何より自分で自分をちゃんと評価してほしいなと思うんです。
あるいは本人はそれが当たり前のことと思ってやっているかもしれないけれど、私たちはちゃんと見てたよってことを伝えたい。
だから直接指導したことがない講師もコメントを書きたくなる。
これが入試の激励の根本にあるものなのかなと。あくまで私たちの思いを伝えたい。ちゃんと評価していることを伝えたい。
それが過度な演出になる人もいれば、自分の心のなかに留める人もいる。
もちろん経営面も考えて
こういうのは入試を成功に導くという側面だけでなく顧客満足度を上げるという効果も当然ある。
実際保護者さんからその色紙の話をよくされますし、なんなら受験が終わって数年後にあったときにまだその色紙を飾っているんですなんて話を聞くと、校門前で消しゴム配るよりもよっぽど効果があるんじゃないかという気もします。
分かりやすいですからね。
空間図形の断面図の問題が解けるようになった瞬間なんて誰も覚えていてくれませんが、入試の応援をしたことは覚えていてくれる。
悲しいですがそんなもんです。
塾って本来勉強を教える場所であって、子どもから忌み嫌われる場所(笑)クレヨンしんちゃんの風間君が今日は塾があるんだ~というたびに嫌な気持ちになります(私が)
いい指導をして知的探求心をくすぐり勉強を楽しくして学力を上げる。
これが一番なのはわかります。
実際そうなるわけです。私のようなカリスマ講師はアハハハハ
ですが私はいい指導をしているならそれをちゃんとその子だけでなく最低限保護者さんには伝わるようにした方がいいかなとも思っています。
当たり前ですね。なんてったってお金払ってくれるのは保護者さんですから。
そういう意味では塾である限りそういった”演出”もしなければいけない部分はあるのかもしれない。そうやってちゃんと伝える力があれば集客にお金も労力も使わなくていい。それこそ…
いい指導していれば生徒が自然と集まってくるんですよ。
みたいなことが言えるわけで。
ちゃんと塾として子どもたちと作ってきたもの、築いてきたストーリーを保護者さんに見せられるかどうかというのは経営者としての手腕だと思います。
ただ勘違いしてはいけないのは”存在しない”ストーリーをつくっても意味がないということ。
最後だけ盛り上げてなんか塾も子どもたちも頑張った感を演出したってなんの効果もないんです。逆効果かもしれない。これだけは間違いないですね。見ていて不快です(笑)
だからこそ私はちゃんと発信しそんなところに負けちゃいけないとも思っています。
だから激励は生徒のためだけじゃないのは間違いなく、そこには別の色が多少滲んでいるのは火てしがたい事実です。
入試は一人で戦う…ものだけど
受験はボクシングと同じ。リングに上がったら誰も助けてくれない。いや、タオルも投げてくれません。
だからこそセコンドにつく私たちは保護者さんと同じでもどかしい。
いや保護者さんの方が冷静。家で鉢巻まいてエイエイオーってやらないし、過度な演出するおかしな保護者さんもいないでしょう。保護者さんの方がいつも通りを”演出”する。
やはり問題は私たち。手を出し過ぎる危険性があるのは私たち。
これまで一緒に頑張ってきたという気持ちはある。
すべてはこの日のためになんて言いながら。
でも試験会場には我々は入れないわけです。もうなんの手出しもできないわけです。
だから色々やりたくなる。もどかしさから何かできることはないかと考える。
それが激励になるのかなと。
だからそれを自己満足でやっちゃいけないなと。ただそれだけですね。
私は入試の日、会場の門前での激励に行きます。行きたい人です。今日も行きました。
ここで最後の調整をする。生徒の顔を見て、もしも一言で何か修正できることがあればと思って待つ。
大概の場合は何もない。でも稀に来てよかったと思うことはあるのですよ。その何かが修正できたときですね。
こればっかりは当日になるまで出てこない症状で、この時、この場所でしか対応できないものだったりする。どんなにそこまで万全の準備をしたつもりでも。
別に激励なんてしない。かなりぶっきらぼうに接するようにする。私と生徒が作ってきたストーリーがあればとくに演出なんてしなくても、そこにいること自体がすでに過ぎた演出だと思うので。
ただし私は合格発表を聞いて泣くこともあるし、入試応援で送り出した背中を見て泣けてくるタイプ。そもそも涙腺が壊れているのでなんでも泣く(笑)
とはいえ私も結局自己満足でやっている部分はあるのかもしれない。自分のおかげだと少しでも思いたいだけなのかなと思うことも。できることを全部やっておかないと何か起きたときに結果を受け入れられないのが怖いだけかも。
最後の最後まで何かできることがないかと考えてしまう。
そんな簡単に自分の力で結果が変えられるとは思っていないんですけどね。
センター試験を自分が受けてから20年。あの時の緊張感や吐き気をこの歳になっても味わうとは。自分が受けるのとはまた違う緊張感。
だからそんな気持ちを紛らわしたくてやっているだけなのかもしれないなと。自分がやり残したことがあるという自責の念からやっているのかもしれないと。
もちろんその自覚が多少あるからこそ過度な演出は決してしない。そんなことしなくてもいいストーリーはそこまでに作っている。
でもそれでもやはり自己満足という教育観についた”シミ”に対して自覚的でありたいなと。
生徒に悪影響が出ないのならいい。でもそうでないことを無自覚のうちにやっているとしたらそれは危険。
にしてもこれからどうしようか。
これまでは個別指導塾だったので学生講師がたくさんいた。まれに「お前誰やねん(゚Д゚;)」みたいな講師が応援に行くことになったりしても全員のところに行けた。
講師は一度行くと大体来年も行きたいって言ってくれた。やはり生徒のため、じゃない部分はあるんだろうなと。
ちなみに行先はすべて講師が決めていた。私が行くのは残り物。遠くて学生講師の負担になる場所とか。やはりなんであの子のところに?という負の効果が出ないようには気をつけていた。
かわいい女の子のところが当たってしまったり一番頑張っていた子のところが当たってしまうと「あ~、そういうことね」みたいに言われてしまうの辛かったな。ただその高校が山の上にあるからなんやけどね(笑)
誰のところに行ったか。それが経営面で問題を生むかもしれない。
だから行かないというのも選択肢の一つ。
そうなるとさらに胃が痛いな。
駅で待つという必殺技も聞いたけどそれでも全対応は無理かも。
結局答えはまだみつかりませんね。よく考えよう。
センター当日の夜中2時に目が覚め、なんかそわそわしながら書いていたらこんな感じになっちゃいました(笑)
今日はこのへんで。
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