どうも、そいる塾長です。
”Man is what he reads.” Joseph Brodsky
名言ですね。これはやっぱそのとおりだと思うわけです。
ちなみにうちの絵本棚。
私がDIYで作りました(*’ω’*)ステンシルで”Man is what he reads.”と入れたのはやっぱり自分の子どもに本をたくさん読んでほしいから。強制はしたくない。自分で本の楽しさを知ってほしいなと。
私は本で人生が変わったので。
本を読まなくても生きていけますがね。でももしかすると1冊の本との出会いが…なんてことあったら素敵じゃないですか。そもそも読むことって勉強の基本。リテラシーも鍛えられる。読むことが苦痛にならない、もっと言えば楽しくなったら最高です。
それを可能にする科目が国語であるはずなんですよね。
でも私が国語を、そして読書を本当に好きになったのは大学入試の国語を勉強しているとき。決して本が苦痛ではなきが楽しみな少年ではなかったので。
だからこそ受験勉強を教えるうえで、まずは読めるようにしたい。「いざとなったら読めますけど何か?」くらいの能力を身につけさせたい。そして読書が嫌い、苦手な子たちを嫌でもやらざるを得ない国語の勉強を通じて読書をしようと思えるようにしたいなと思っています。
だからこそきっかけを入試問題にしたい。商売柄仕方ないんですが、どんなに点数を取らせてもやっぱり読書の面白さを伝えられないなら何のためにやってんだという話です。
国語と読書の関係についての私の見解
私は小学高学年から中学、そして高校2年くらいまではほとんど本を読んでいません。そう考えると私が突然模試の国語で全国一位を獲得するほど国語が得意になったことと、”そのとき”の読書量はほぼ無関係に思えます。
時間があったら外で遊ぶ子だったので。
これは当然と言えば当然。
本を読む土台となるものが早い段階で作られていないと、そもそも本が読めないので、読書が好きになる訳ありません。分からないのに楽しいほうがおかしいですよね。
国語が苦手な保護者さんが言う「うちの子本を読まないので」。残念ながら彼はもう読めないから読まないですよ。
土台をつくるのはあくまで読書体験。しかしそれが欠如している子たちがいるわけです。
だからここで国語の授業の出番となるわけです。そうです私たちの出番となるのです。読める力とそして読みたくなる授業をね。しかし今日はこういう対症療法ではなく原因療法のお話をしてみたいなと。
ぶっちゃけ幸運なことに私にはある程度の土台があった。得意だと思ったことはないが小中と国語で困ったことはない。
ただ中高での読書経験が極端に薄かった、つまりは大学入試問題レベルの文章への対応力が読書で培えなかったのと解き方が分かっていなかったから高校入学後いったん国語で躓いたわけです。
ですがそこから独学により一瞬で国語が得意になりそのうえ読書まで好きになれたのは間違いなくそんな土台がある程度備わっていたから。
おそらく私の国語力の土台を作ってくれたのは3人の大人たちです。
この3人の役割からこの国語力の土台がどのようなものかを見ていきましょう。
私の国語力の土台をつくった大人一人目:母親
☑ ②親が本を読む
☑ ③親が子どもと本の内容について話す
この3つかなと。最初に国語力を与えるチャンスをもつのは間違いなく両親。①と②はともに③の前提条件かなと思います。
大事なのはとにかく③
これがないとね…無理やと思います。③の最初が絵本の読み聞かせなんですよね。もちろんそれは保育園や幼稚園の先生でも爺ちゃん婆ちゃんでもよいわけですがね。
絵本の読み聞かせが読書の基礎である3つのポイント
最初に読み聞かせがもたらす3つの大きなポイントを。
☑ 【2】読み方で文字・文のイメージ化
☑ 【3】子どもたちのアウトプットを促す
【1】絵で文字・文のイメージ化
おそらくはこれが最も大切な絵本の機能なのかなと。文字・文に対して絵でイメージ化を補助するわけですね。絵本ってリアルなものから抽象画みたいなイラストまでありますよね。その辺このイメージ化のトレーニングにはどうなんだろうと。子供たちの目にはあの絵はどう映っているんだろなと。
なんにしてもここで文字列に意味を持たせるイメージ化のトレーニングとなる気がするんですよね。
【2】読み方で文字・文のイメージ化
読み聞かせをしていると最初は子守歌みたいなもの。ただちょっと成長してきて同じ絵本を何度も読んでいるとまず読むのを真似しますよね。これこそ文字に意味を持たせる読み方の原型でしょう。
広告などでフォントを変えてイメージ化させる手法と同じですよね。
こちらのサイトで紹介されているこちらの画像がまさにそれ。ほんと面白いですね。これを声でやるというだけのことです。これも【1】のイメージ化と同じ。
【3】子どもたちのアウトプットを促す
そしてだんだん読んでいる最中にあーだこーだ邪魔してくるようになるわけです。子育てでヘトヘトのところにこれが来る。わかります、私先に寝たこともあるんで(笑)
しかしこれがいかんのですよね。
たとえそれが頓珍漢な発想でもこれが子どもたちの最初のアウトプット。これに対する大人のリアクションでまず最初の国語力の分かれ目が来るかなと。
読むだけじゃダメってことなんです。そして本も与えるだけではだめなんじゃないかなと。最初はね。
子供たちにアウトプットするよう持っていけるか。そのためには教えるのではなく聴く。子供たちに与えるのは質問。大人の役割は聴くことだなと思うのです。
だって本の面白さって文字の外にあるんですよね。行間とかではなく完全なる外。読んだことから何を思うか考えるかが読書の面白さ。口にいれた瞬間よりも消化するときが面白い。その消化酵素が大人であれば「経験」だったりするわけです。
これなんかまさにそうで、ある時を境に全く違った作品になりました。面白さは文字から情報を正しく読み取ることじゃあないわけです。
でなければ昔読んだつまらない本を大人になってから読み直して号泣するなんてありえないわけです。情報が読み取れていなかったわけじゃあないですからね。国語で100点とっていたってこの絵本では泣きませんでした。同じ文字と同じ絵がそこには書いてあるのに。
つまり子どもたちにはそれを可能とする正しい読み取り能力はもちろん、その情報をイメージ化する能力もない。そして面白さを消化するための経験もないから絵本の読み聞かせにより文字以外の情報源を与え、さらに考えるヒントを与えてあげる。それが絵本の読み聞かせのときにもっともやりやすい子どもとの対話。
これができると面白くなると思うんですけどね。でもここで面白いと思わなかったらいくら家に本が置いてあってもそりゃ手を出すはずもなく。
ちなみに我が家は本がたくさん置いてある家…ではなかったかなと。少なくとも文庫本が並ぶような本棚はなかったわけですが、ありがたいことに母親が本をたくさん与えてくれたり頻繁に図書館に連れて行ってくれていたことを覚えています。
私の読書の原始体験はこちら。
どんな風に母親がこの本を読み聞かせてくれてどんな話をしていたかは覚えていませんが、多分もう嫌になるくらい読んでもらったと思います。これ今読み聞かせをする立場になると結構長くてつらい(笑)
そんな親の気も知らず他の絵本にわき目も振らずこの絵本を握りしめていた記憶が。