どうも、そいる塾長です。
私的にはこの丸付けするだけ勉強法は「解くだけ勉強法」の亜種ですね。形だけは解くだけよりちゃんとした感がでちゃう。これが危険。特に”作業員”になってしまいがちな勉強なので注意しましょう。前回の「解くだけ勉強法」はこちらからどうぞ。
丸付けの目的を理解していない子どもたち
小学生のとき、丸付けは誰がやってくれていました?
先生ですよね。
宿題をやって、提出させて、はなまるつけてコメント(よく出来ました的な)書いて返してあげるとそれが成功体験になる。これは本当に大事なことです。
ですが、どっかのタイミングで自分で丸付けして間違った問題に対してどのように対処すべきかを教える必要があると思うんですよね。
いや丸がつくようにしなければいけないんですよ。正解することは大切。
ですが中学、高校と進んでいくにあたって、自分のできないことと向き合わなければならなくなるわけです。それをせずに進んでしまうと、間違えた問題に対しておかしな態度を取るようになる。
塾で指導していると毎年必ずこのタイプの子が入塾してくる。
これをやる子は他のやってはいけない勉強法をすること同様、本当に伸びません。そしてなかなかこの変なクセは抜けない。なんせ本人も周囲もちゃんとやっていると思いこむパターンですから。
こういう子にとって勉強は正解するため、つまり丸がつくためのものです。これは一見正当な目的のように思えるかもしれません。しかしちゃんと書くと恐ろしいことが見えてきます。
あくまで丸がつくことが勉強の目的なんです。例えばこういう子は問題集を買ってきて全問題解けると喜んでしまう。
このことに違和感がないならば危険。勉強を作業だと思っている可能性大です。
問題集を買ってきて全部丸になるならそもそもその問題集やる必要ありましたか?やる前からもうすでにできるものに時間とお金を書けたということですよ?
丸がついたらかしこくなった!これがおかしな勉強法を生み出す誤解です。
例外はあります。初めて出会った問題に対して考えて考えて答えを出したら正解だった。これは正しい勉強の姿勢ですし学力向上に直結します。しかしあくまですでに自分の力を出しければ溶ける問題しかなかったというのは動かない。つまりアウトプットの練習をしているだけで新たなインプットはないし、そもそもアウトプットの能力も自分の手の届く範囲までしか伸びません。
こんなの簡単♪と思いながら解くだけの作業に意味はない。それに丸がついたからと言ってそりゃそうやろとしか言いようがないのです。
つまり丸がつくかどうかに意味はないのです。あくまで丸付けは今自分がやったことができているかどうかの確認の”印”でしかない。”印”である以上その後で行うことのための記号に過ぎず丸がついた瞬間レベルアップするわけなんてない。
だから丸がつくことを目的にするのはテストのときだけ。点数で勝負するゲームならそれで良い。
ですがこと勉強において丸をつけることは重要ではなく、丸が付く前、そして丸がついた後の勉強が何より重要で”印”としての丸はそれをこの後どうするかを決めるもっとも単純な案内表示に過ぎない。宝の地図みたいな。
なのにこの間違えを消しゴムで消して書き直した上で丸をつけるという行為は証拠隠滅によりその案内表示をおかしくしてしまうような勉強の姿勢。せっかくの宝の在り処を消しゴムで消してどうする!?
私が必ず生徒に話すこと。
こういう子は確実に丸がついたら勉強が終了だと考えている。見せるためであって自分のためのまるつけではない。
丸付けのあと勉強が始まる
正解しようとするのは大切です。しかし丸がつく問題が目的になるのは大変危険。間違えた問題を解き直したり、それについて考えたりすることをしなくなります。
学校の先生に丸をつけてもらっていたとき、丸がついて褒めてもらうことを目的にしてしまう。いつまでもそれをするなら自分で正しく丸付けをする習慣は身につかない。
そして自分の解いた問題があっているかどうかすら気にならない子が生まれる。
もっとなんのために問題を解いているのか考えるべきです。
「このしんどい、つまらない時間はなんのためなのー!?」ってならないと。
なのに、丸がつくことを目的とする子は間違えた問題を軽視する。その問題こそが自分をレベルアップさせてくれるための宝箱。それをせっかく見つけたのに開けないどころかもう一度埋めなおそうとする愚行。
なかには間違えること自体を恐れ、そこを見ないようにする子もいる。
こういう子にとって間違えた問題はまさにこんな感じなんでしょうか(笑)
間違えた、解けなかった問題というのはそれをできるように今自分が出来ないものを教えてくれるもの。つまり丸付けをして何が出来ないかを初めて知ることができる。
丸付けは読んだり、書いたりしてインプットし、解くことでアウトプットすることでインプットできていないもの、アウトプットできないものを仕分けするだけの作業。
せっかく仕分けしやるべきことが明確になったのになぜそこで勉強をやめるんです?丸付けが完了した時点で勉強というのものの下ごしらえ、事前準備が終わっただけですよ?計画たてて実行しないのと同じ。
なんでそんな風になるのか。
これが一番の理由だと思います。
確かに誰も丸付けの意味なんて教えない。私も教えられたことはない。ただテストの点数を上げたいなと思って勉強してたらそっちに目が向く。そんなに難しく考える必要はありません。それがテストに出たら嫌だなーと思っただけ。
結局前にも書いたことですが、”天秤”がぶっ壊れているです。
問題解いて丸付けもした。これが先生から言われた”ノルマ”。そしてその”形”は達成したじゃないの。それの何がいけないの?なんでここからまだ勉強しなくちゃいけないの?
しんどいよね。遊びたい気持ちを我慢して机に向かって”勉強”したんだよね。丸付けも言われたとおりしたもんね?頑張ったよね。
それが答えられない子には、もう一度いいますね。
なんのためにそれやってんの?
完全に目的を見失っています。これが作業員の正体です。結局最後はどの勉強法もここに行き着くんですよね。
それならもう一層のことやらないほうがマシじゃないかと。だって結局成長しない。ならば”勉強”しているポーズを取るためだけに時間を使う。何もそこからは生まれないのに。
本当にそれでいいの?
美味しいチャーハンの作り方
- 長ネギはみじん切り、豚肉は一口大に切り、卵は溶いておく。 ご飯は温かいものを用意。
- …
- 以上
いや、炒めて!
おいしいチャーハンできるから。1でやめんといて。なんで長ネギ切ったねん!
という思いが溢れて涙が止まりません。
赤字で答えを書き写すという行為の意味
僕はちゃと丸付けして赤で答え写してるもーん
赤字で正解を写すというのは結構みんなやりますけど、なんでそれやるのか分かる人いますか?これって教育学とかではどういう位置づけなんでしょう?どの先生もそう指導しますよね。
駄目とか言う前にこの行為の目的をどう考えているのか気になります。
私が思いつくのは、解答がないもの、例えば授業中に先生が黒板に問題を書いた際に演習し間違えてしまった場合、先生が言った正解は赤で書き写すかなと。赤で書くのは自分の解答と区別するためです。
あとは単語テストや社会の問題なんかは、間違えたものを後で覚え直すためにいちいち解答を見るのが面倒なのでそこへ直接赤字で正解を書き込み、覚えたかどうか自分でテストするときは手で隠してやる感じかなと。
じゃあそうではなくてワークなんかの演習問題をノートに解き、丸付けするときに間違えた問題はノートに赤字で正解を書き写す行為は一体何のためにやるんでしょう?学校の課題でもそこまでがノルマになっている事が多い。
提出物のノルマといえば宿題をちゃんとやらずに答えを写してくるなどもってのほかですよね?
これなんで駄目かというと、しっかり自分で考えて問題を解いてほしいからですよね。それがその子の力を伸ばすのだから。じゃあなんで間違えた問題はいいの?
一生懸命考えた結果、間違えたり出来なかった問題ならOKってこと?
でもさっき書いたようにそう言う問題こそが自分を成長させてくれる問題なのにそこは写してOKなの?写したから何になるの?
いやこれ結局写すんかーい!っていう違和感。
これを義務として生徒に課すのはおそらくはちゃんと解答を確認したという証拠を残させたいんでしょうか。この辺の勉強法みたいなものを指導する人はその辺意識してやっていらっしゃるのでしょうか?
ちゃんと指導されているなら、(ア)のよこに(ウ)と赤字で正解を書き写すことに何の意味があるのか説明できるのでしょうか?
それをもって間違えた問題としっかり向き合った証拠とするのは無理があるのでは?
おそらく答えがあっているかを意識させるように始まったこの勉強法。形だけを指導することによってそれをすれば意識したように見えてしまう大変危険な勉強法になっている気がするんです。
この勉強法も、結局ちゃんとやった感だけ出してるけど結局解答を写してるのと大差ないような子が大半。差があるとするならできる問題を一生懸命時間と労力をかけて頑張っただけ。
でもそれで学力が向上するわけではないのであれば人生損しているなと思うわけです。
赤ペンで答え書き写してはい、終了。
いやいや、写しちゃってどうするの?できないでしょ?今自分の力で解けないでしょ?
それって結局解く前に答え写しちゃったやつと一緒やん?色が赤なだけで。
赤字で答え写してテキストを閉じちゃう子って一番無駄な作業を多くやってしんどい思いをしている作業員。終わった感だしてんじゃねーよと。
じゃあどうすればいいの?そいる式丸付けの方法
そんなに難しく考える必要はないんです。
最後にとりあえずそいる式勉強法として私が中学生に指導している”丸付け”の方法を紹介しておきます。
正しい丸付けの方法
問題を解く→丸付けをする→間違える(解けない)→間違えた問題に印をつける
これが基本。本当のことを言うと私は生徒に丸はつけなくて良いといいます。特に自分で勉強するときは正解に丸をつける必要はありません。提出物とかだと怒られちゃうことが多いので仕方ないですが、でもやっぱりいっぱい丸をつけるの面倒。インクもったいない。それに何よりノートが見づらくなる。つまりどれが間違えた宝箱かが見えにくくなるんです。
間違えた答えを消しゴムで消して書き直すなんてもはや見つけた宝箱をバシルーラで飛んでけーってする行為です。
間違えた問題にだけチェックをつける。
そして次はそのチェックした問題をもう一度考え直す。それであっさり解けたらただのミスということ。例えばそういう問題は△をつける。
それでも解けない問題、正解しない問題はそのときに、テキストの問題の方に印をつける。問題に丸を付ける感じです。そうです私は間違えた問題に丸をつけるんです。
当然これはやり直しをするため。たとえ質問したり解答をみて自分で「わかった」と思ってもそれはまだ「わかった」だけ。「できる」にはなっていないわけです。だからこそのやり直し。
この印をつけていなければ不安にならないのが不思議。
わたしは部屋でゴキブリを見かけたら完全に駆逐するまでは眠れませんがみなさんはどうでしょう?
質問したい問題には付箋を貼るのがおすすめ
間違えた問題に印をつけるのはもう一度解くためです。そして解説・解答を読む。その上でもう一度何も見ずに解く。解けなかったら再度解答解説へ。納得できたら次へ。納得出来なかったら付箋を貼る。できたら書き込めるくらいの大きさの付箋。その付箋に質問内容を書く。そうです。自分で処理できないなら先生に質問するしかない。もちろん教科書を読み直したり調べてもいいですよ。
で、調べてわかったことや教えてもらったことはノートに必ず書く。少しで済むなら解答解説のところに書き込んだり付箋に書いて貼るのもありかなと。この辺おすすめ。
ノートは上手に管理しないとどこに書いたかわからなくなってしまいがち。うまく使い分けましょう。宿題用とは分けたほうが良いかなと思います。小さめのノートを質問受け用のノートにするのが良いかもしれません。
こういうのがいいかも。
(ちなみに次回のやってはいけない勉強法シリーズ第5弾は「ノートまとめるだけ勉強法」です。)
とにかく質問して教えてもらってわかったときは、「わかったつもり」になっているだけの可能性大。だから次のことを意識してみてください。
質問後は「つまり~」で説明してみる
その内容を自分で咀嚼してなにかに書きだすだけでアウトプットすることになり理解を深め定着することになるからおすすめ。眼の前に先生がいるなら「つまりこういうことですね?」ってやってみればいい。それでちゃんと理解しているかどうかわかる。
自分一人で調べてなんとかなったときもセルフティーチングで自分に説明するようにその問題を説明してみれば良い。
※ここで一つツイートをご紹介(追記)
「要するにこれをここに代入する?」
それは全然「要するに」じゃあないんやで。個別に撃破すべき問題がまたひとつ増えてるだけなんやで。際限なく増やしていくつもりかい?— 空き瓶先生 (@an_empty_bottle) 2018年10月23日
これはよく理解してください。 「要するに」「つまり」は正しい思考のプロセスをトレースしてくださいね。空き瓶先生がおっしゃっているように
「それは全然要するに」じゃあないんやで
ってことは授業をしていて本当に多い。これぞ「解答だけ覚える」の典型。こんなの「要するに答えは(ウ)ですね」ってのと一緒。なんにもわかっていません。なんで代入するのか、なんで(ウ)になるのかが「要するに」「つまり」で言ってほしいのね。その辺を理解して欲しい
答えを赤ペンで写すのではなく、解答を読んで自分の力で解き直して、それでも無理なら質問して最後は自分の力で解けるようにする。それが勉強よ。
だ・か・ら!
丸付けしてから勉強は始まるというわけです!!!
もうおわかりかもしれませんが後半のできない問題ほど扱いが丁寧でしょ?
最初にできちゃった問題なんて最初にポイです(笑)できる子はみんなこうしている。
それを後生大事に花丸つけてる場合じゃないぞ中学生。高校生は言うまでもなくね。
次回はやってはいけない勉強法その4「まとめるだけ勉強法」の恐ろしさについてお伝えしたいと思います。
今日はこのへんで。