どうも、そいる塾長です。
「最近現代文がスランプなんですけどぉ」という質問?相談?を受ける時期になってまいりましたね。もはや風物詩です。皆さん、この手の質問にどのように対応されてますでしょうか。。
— 土井諭【現代文講師】 (@stmdcon) 2018年10月30日
今回はやっとこの時期特有の”スランプ”である”第2のスランプ”の原因とそこから脱出する方法について書いてみたいと思います。
前編はこちら
点数が伸びてきたころに陥りやすいスランプ
11月。公募推薦直前。センターまで約2か月半。
前編で書いた入試現代文初学者もこの時期になると一冊は参考書を読み通し、ある程度演習量をこなしている頃。うまく勉強が進んでいればマーク模試や過去問演習で点数が伸び始めたころではないかと。
基本的にこの時点でまだ点数が伸びない場合おそらく最初の入り口で躓いている可能性がありますね。まったく参考書や先生の言っていることと違うやり方をしちゃってるかもです。ここまで時間と労力をかけて上がっていないなら最初のところを理解できていないと思われます。根本からやり直すべきですね。
しかし一方で例年センター過去問演習の評論で1問しか正解できなかったような子でもたった1回だけ私の授業を受けたらいきなり次回満点なんていうどっかの嘘くさいチラシに載っているような事例も実際出ます。
一度掴んでしまうと点数が跳ね上がるのも現代文。
そりゃそうです。知識問題と違い読解は一つできれば他も連鎖してできるようになる(可能性がある)。しかも読解問題は一問の配点がでかい。センターなら数問正解すれば20~30点くらいはプラスになります。
点数が安定しない危険性
私が指導している生徒でこんな風にちょっとやったら点数がぐいーんと伸びる生徒の特長は総じて現代文が昔から苦手だった層。もちろん元が低いから伸びたように見えるというのはあるんですけどね。(ただ日本語は大丈夫な人限定です(笑)最低限の語彙と活字慣れはしておいてもらわないと高3の段階で指導は不可能ですよ。)
わかりやすい例で言うとマーク模試で6割くらいの子に8割以上、なんなら現代文は満点近く取らせるのは割と簡単です。これは変に現代文を解く感覚を持っていない人だからというのが一番大きいかなと。「かちゃっ」とはまればほんとにびっくりするくらい伸びる。もちろんしっかりはまるまでの時間、はまるときの「かちゃっ」の音の響きは人によりますよ(隠喩)
ただし毎回取らせるとは言っていません。まだまだ手持ちのコマ(実力)が少なすぎて少し難易度が上がると破綻するのは目に見えています。
一方で変に前回書いたような”感覚”がある子はそれを矯正するのは難しい。この”感覚”で目標点を取れるのなら別に矯正する必要はないのかなとも思うんです。
しかしこの”感覚”派の子たち。自分でもどうやって解いているのか、そしてどうしてできるのか自分でもわかっていない。そしてその”感覚”のレベルは人それぞれ。ある一定レベル以上の問題になるとその”感覚”が通用しなくなり一気に破綻します。
そしてそうなってしまうと自分の中に何か明確な解くための「手段」を持っていないため何もできなくなります。そして崩壊するわけです。まぁこの崩壊したタイミングでしか聞くも耳持ってくれないので指導する側としてはチャンスなんですが。
そういう意味では”感覚”で解いていて点数にばらつきがある子は早いうちに矯正したほうが良い。前回お話した良薬は口に苦しです。
複数回解く中で1回でもとってしまった不本意な点数のほうに目がいかないと本番はその点数以下になる可能性があるのです。いやそんなの他の科目でもそうでしょうよと言われそうですが、それが他科目ならその問題は何の単元でどんな難易度でというのが分析しやすいわけです。だから対策を打てる。ですが現代文はそれが難しい。だからこそ、その”失敗”を気にせず前に進みがちです。
気にしていない証拠にこの状態を”スランプ”とか呼ぶわけですよ。
文章の難易度で点数が乱高下するのは大変危険
私見ですが現代文の問題難易度というのは素材となる文章の難易度ではなくどちらかというと設問にあると思っています。
普通は逆だと思います。難しい文章が使われたから平均点が下がったなんて言われます。しかし文章が難しくとも問題を作るのはその作者ではありません。問題レベルは出題者の意図でいかようにも難易度を変えることができます。傍線部を少し短くするだけ、すこし選択肢の語を言い換えるだけで難易度は激変します。
文章が難しいと、簡単に言えば読んで理解できる情報量が少なくなるということ。しかしそのような問題では少ない情報量でも解ける問題設定が大抵は行われているように思います。センター試験や良質な問題を出す大学入試、模試ではなおのこと。
だから文章の文章素材のジャンル(テーマ)、硬軟、そして単純に難易度によって点数に凹凸ができるということは基本的に一貫した正しい読解、解法を仕えていないということになるのかなと。つまり難しい文章を前にすると取れる情報が少なくなるのではなく急に0にしてしまう子たちがいる。
特にセンター試験のように出題形式が変わらず設問レベルや文章難易度のばらつきも控えめな試験で点数がバラつくのは危険信号。センター過去問で点数が乱高下するようなレベルで本番に挑むのは、数学で言えば覚えていない公式があるままで数学の試験に挑むようなもの。(言いすぎかな^^;)
例えば哲学素材のかた~い評論とか皆さん苦手ですよね。こんなのが模試で出題されると決まって試験後の生徒が言うセリフ。
何言っているかわかんなくて文章が頭にはいってきませぇ~ん( ;∀;)
この時点でダメ。「頭にはいらない」という言い方自体がもうすでに読解時の情報処理の方法が確立できていない証拠だし、そもそもそういう場合の読み方、解き方を用意していないということです。これが読み取れるものを0にしてしまった典型的な例ですね。そもそも哲学書なんて私たちが読んでも何言っているかわかんないですよ(笑)要はその文章から読み取れることをしっかり基本に忠実に読み取ろうとすればよいだけ。
こういうときこそ最初に勉強した基本的な読解方法を実践しなければいけません。いつから君は”読める子”になったんだい?と。
数学で言えば問題をどんなに捻ろうが余弦定理を使う問題は余弦定理を使う問題です。例えになってないかもしれませんが…(-_-;)
逆に私の経験的にはこういう硬い文章のほうがシンプルに論旨を抑えれば解ける設問になっていることが多いかなと。おそらくその辺は出題者の意図かもしれません。複雑なものをシンプルに説明させる的な。でないと国語のテストでなく哲学のテストになりますからね。
例えばセンターでは試験中に叫び声が試験会場にこだましたという伝説の2013年の第1問。小林秀雄「鐔」。たしかにセンター対策しかしてこなかった生徒には不慣れな随筆(エッセイ)ぽい文章で非常に”難解”な文章ともいえるでしょう。しかしだからと言ってなぜ本番にいつも通りのやり方を貫けなかったのか。私の生徒の一人は難易度が高かった感覚すらなく読解は満点でした。「え?今回平均低いんですか?古文ですか?」って言ってましたね。(漢字は間違えてましたけど笑)
評論じゃないと解けないなら、じゃあ第2問の小説はどうやって解いてきたのと?そんなだから第2問牧野信一「地球儀」で連鎖するように現代文が崩壊するわけです。
多分第1問で時間をかけすぎ、解けなさ過ぎて精神的に追い詰められ錯乱状態でそのまま最後まで解いた人が多かったんだろうなと。この辺も修行が足りんのよ。死ぬなら堂々と第1問で死んだらよかったんです。そして生まれ変わった気持ちで第2問へ(笑)
この辺の精神論はこちらで詳しく(笑)
(なお私自身がセンター国語でぶっこけたお話もここにかいてあります笑)
文章のジャンルが変わるだけで点数に影響が出るのは背景知識の有無以上に、ただ単に一貫した読解ができていないことを認識すべきかなと。まずは多くの問題に触れ毎回丁寧に本文と解説を片手に格闘しながら何が読めていて何が読めていないかをしっかり自分で見つめなおしましょう。
もちろん背景知識をいれることもリスク管理の面では大きい。ただこんな不安定な点数を叩き出すようなレベルの読解力しかない子は、はたして背景知識を一般化し目の前の文章に援用できるのか?という不安もあります。
つまり読まずに自分の知識で解いちゃうんじゃね?という。こういう子は出題者からすれば誤答にミスリードしやすい典型的なカモですよね。そんなこと本文に書いてませけど何か?系の選択肢を選びそう(笑)
…
あ、すみません、え~…なんの話でしたっけ…?
ああ、第2のスランプね。(ごめんなさい、まだ半分くらいです。この辺でいったん切ろうかと思いました面倒なのでこのままいきます)