どうも、そいる塾長です。
認知哲学―心と脳のエピステモロジー 山口 裕之
「心とは何か」について中国語の部屋,チューリングマシン,ニューラルネット,心の理論,クオリア問題,量子論やカオス的現象など33のキーワードで科学と哲学の両面から今話題の人工知能と人間の「意識」との差異について考察した本という説明でいいですかね。
ちなみにエピステモロジーは日本語にすると「科学哲学」とか「科学認識論」。
タイトルと本の装丁のおかげで入試の出典作でなければ買おうとは思いませんでしたが中身は普段このようなトピックスに触れていない人間でも、思考実験のような感じでどのテーマも非常に面白く読めますのでご安心を。
京産大の国語
今関関同立や産近甲龍の科目別分析を書いている(書こうと決意しただけ)ので、詳しいお話はまたそこでするとして、京産大の特に公募推薦の評論は、とにかく文字数が少ない。
出典もかための哲学モノなんかが多く、本文全体を読めているかだけでなく、一文を論理的に正しく読めているかという問題があったり、より論理的思考を要求されている感覚が強いです。
設問の選択肢も一切本文に記載のない文が並んでいたりと、現状中3国語に毛が生えたようになってしまっている龍谷大の現代文なんかと比べると、個人的には設問も骨太で、感覚でなんとなく解けるタイプの人が思ったように点数が伸びない印象。
英語に比べると受験者平均も低いようですしね。その分苦手な人でも対策をしっかり行えば国語で逆転しやすいというメリットはあります。公募だと古文ないですし。
てことで入試を完全になめ切った夏スタートの高校生をこれまでいったい何人押し込んできたか(-_-;)
…
閑話休題
そんな京産大の国語(評論)をよく表しているのがこの2011年かなと。
(実際の問題は赤本でご確認ください。)
最後のほうの空欄補充ができないタイプはこの「論理的思考」ができないタイプだと思うので練習しないと京産は爆死するかもしれません。今は合格ラインもかなり上がっているのでね。
ただこの「認知哲学―心と脳のエピステモロジー」なんてのを使っている時点で所謂「論理的思考」=国語力だとは京産大は言っていないのは明らかです(のはずです)
でなければ読ませている文章の内容と設問設定がズレるというおかしな現象が出てきますしね。
読書感想文
今回はこの京産大の出題部分のテーマに絞ったお話をします。
それが「サールのチューリングマシーン=中国語の部屋」。詳しくはウィキペディアさんでも覗いてください。
↑より「認知哲学―心と脳のエピステモロジー」のなかの記述の方が分かりやすいかなと思うのでその「中国語の部屋」を説明した部分を引用しますね。ここは京産大入試の出題部分でもあります。
部屋のなかにサールが閉じ込められている。その部屋の窓から中国語の文書が投げ込まれる。部屋の中には、投げ込まれた記号列に対してどんな記号列を返せば良いのかを説明した英文のマニュアルが置いてある。サールはその指示に従って、自分では意味の分からない記号列を紙に書き付けて窓から返す。このとき、部屋の外で中国語の書いた紙を受け渡している中国人から見ると、その部屋が(あるいは部屋の中にいるサールが)中国語を理解しているように思うであろう。しかし、サールは、意味もわからないまま、与えられた記号に対して、指示通りに記号を書き付けているだけだ。
まずこの問題で爆死する人はここが”読めない”(-_-;)
あくまでこれは実験の説明をしているだけで抽象化されたような難しいことは何も書いていない。こういうのが読めない人が論理的な文章が読めないと言えば良いのでしょうかね。これぞ数学や理科の問題文が読めない人です。
ということでこれが読めない人のために例をあげて簡単に説明しましょう。
例えばWebの知識が全くない人が親切なサイトをサイトが書いてある通りの手順でボタンをクリックしていき指定された場所にこれまたサイトに書いてある見てCSSのコードをコピペしてサイトを作ったら、そのサイトを見た人は「すげー凝ってるなこのサイト!この人Webの知識あるんだろうな」と勘違いする。でも実際その人はWebの知識なんて全くなくて結果を見なければ自分のサイトがそのコードでどうなるかなんて実際は全くわかっていない、というやつです。
ずばり私のことですね(笑)
ん?ちょっと違う?(笑)
とりあえず今回この本を紹介しようと思ったのはこのお話がしたかったから。
分かるとはどのようなことか
今回AIについてどうこう言うつもりはなくて、算数でよく議論される「みはじ」のお話がしたかったんですよね。
一度ここでお話しているので詳しくは書きませんが、どうしてもこの「みはじ(はじき)」を使っている生徒を見ているとこの中国語の部屋が思い出されてしまうんですよね。
「中国語の部屋」ではなかの「サール(英国人)」は一ミリも中国語を理解していません。そもそも中国語だという認識すらないのがポイント。ただマニュアルに沿って記号を変換しているだけ。
ここでサールは①「情報処理」をするだけのコンピューターと②「意味」を理解する人間の意識を差別化しているわけです。
「みはじ」というテントウムシに数字を放り込んで出てきた「数字」を解答に書くのはこの実験でのサールと同じじゃないですかと。
生徒は「速度」が何かを理解していません。そしてこれで点数が(そのときは)取れるからこの方法を使うと「速度」を理解しているという評価がなされるわけです。速度という概念の理解など必要ないと感じたらそりゃただの記号処理のようにしておくのが一番楽です。
この「みはじ」に関しても、よく「使っているうちに理解する」といったお話を見かけるのですが、ではこの中国語の部屋のなかのサールもそのうち中国語を理解するでしょうか。
そうした操作を行っている当のサール=チューリングマシーンは、自分のなしている記号操作の意味について何ら理解していない
この本で筆者がこうまとめていると通り、そこに「意味」を見出さない以上、「理解」などありえないと思うのです。
「みはじ」では計算方法という速度関係の処理の仕方は身についても、速度という概念の理解にはつながらないし、同じ単位量当たりの考え方である割合や理科の計算方法(情報処理)にすらつながらない。
おそらく「みはじ」の議論が噛み合わないのは、この「情報処理」を勉強の目的とする先生と、その概念が持つ「意味」を理解させたい先生がぶつかっているかなと。
私としてはいくら「情報処理」を「反復練習」してもその「意味」を理解しようとしないと「理解」なんてできないですよという立場。そして「理解」を伴わないとしたら、そりゃ学校で学ぶ知識に意味はないなんて議論になるんだろうなと。
だって三角関数という計算処理を日常で使わない人からしたらその処理自体しないわけで必要性なんてないでしょう。
ですが三角関数を学校で学ぶのは本当にその処理方法を身につけなければいけないから、なのでしょうか。
そうではなくそこにある意味を理解することで、三角関数を用いる場合、それを応用する場面はもちろん、三角関数という数式からそれがもつ「意味」を理解する練習をしたことで、三角関数とはまったく無関係な、なんなら数学以外のところでも同じように「意味」を理解する練習にはならないでしょうか。
学び方のトレーニングとして学ぶという考え方ですね。
こういう能力こそ将来もAIが代替できないところかもしれないし、すくなくとも情報処理をおこなうマシーンを使う側はそこを理解しておかないといけないような気がします。
ただそういう意味ではサールも生徒も人間です。本物のチューリングマシーンではない。だからこそもしかしたらその「情報処理」の反復の中で何かしら「意味」を見出すかもしれない。
この「みはじ」でも「使っているうちに理解できるようになる!」という人はそこに期待しているのかなと。他にも例えば英語の例文を意味も分からずひたすら音読するという方法。聞き流しているだけ…みたいなやつも同じ。
ほとんどの人がこれをやるととんでもない時間がかかる。それは母語を獲得した方法だからですね。例えば文法を学ぶことによって一般化しやすくしマスターするスピードを上げようというお話しなのですが、今の英語教育はそれを捨てまさにこのチューリングマシーンのような方法で指導しているような気がするんです。
少なくとも「意味も分からず繰り返す」という方法で出来てしまう人は一般化、抽象化する能力が非常に高い。そしてこの一般化、抽象化というものも「意味」を見出すからこそできること。
「できる人がいるんだからみんなできるはず!」みたいなのは違うなと。そんな生徒任せな指導はしたくない。
ならば私たちに求められているのはそんな「情報処理」を繰り返している中でもその処理の中に「意味」を見いだせるような能力を育てること。先ほど書いた「学び方のトレーニング」をさせることではないかと。
少なくともその「情報処理」と「意味を理解する」ことの差異について生徒が自覚的でいられるような教育をしたいという思いがあります。
そのためには「何も考えずにひたすらやれ!」みたいなのは違うと。お祈りゲーみたいでいやです。自立と放置は違うと思うんですよね。
AIはそのうち感情を持つなんて言われていますし、そのうちこの「意味」すら理解するようになるのかもしれません。
ただ、これからの時代にこの中国語の部屋で出てくるチューリングマシーンの劣化版のような子どもを育ててこれからなんの意味があるんだろうというのが本音。
もちろん人間にも情報処理能力は必要ですがこの本で言うより上位の思考である「意味」を理解できるような指導を心がけたいなと。
国語の読解もそう。さきほど「論理的思考」=国語力ではないと書いたのもそれ。「論理的思考」という言葉が単に「情報処理」の方法として用いられるならですが。やはり国語の読解というものもそこにある「意味」を見出すものであるのは言うまでもないですね。
安易な言葉かもしれませんが、こういうのが私の言う「考える力」なんですけどね。なかなかうまく説明ができないので今回この「中国語の部屋」を例に上げたら伝わるかなと思ってこの本を紹介した次第です。
とはいえ、この本の中ではこれ以外にもおもしろいテーマがたくさん読みやすい記述で紹介されています。いずれも入試現代文のテーマで問われそうな内容ですし、受験生のみなさんも読んでおいて損はないのでは?
今日はこのへんで。
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